コラム:ロシア便り
039:エストニアの首都タリンに残るソ連
夏休みに、タリンへ旅行してきた。20年前、エストニアを含むバルト三国はソ連からの独立を模索し、1991年に独立を果たしたことは、ご存じのとおりである。だがエストニアには、まだまだソ連時代の名残を見ることができる。今回は、その一端をご紹介したい。
タリンに行ったことのある人ならご存知のことと思うが、タリンは新市街と旧市街でまるで雰囲気が違う。新市街にはソ連時代に建てられた建物が多く残っており、まるでロシアの地方都市に来たような気にさせられる。一方、旧市街は、ドイツや北欧などに見られる中世ヨーロッパ風の街並みがそのまま残っており、まるで旧市街全体が大きなテーマパークのようだ。こうした街並みは、ロシアでは見ることができない。
日本ではバルト三国と言うと、どうしてもロシアとの結びつきを連想してしまうが、実際には旧市街に象徴されるように、西側とのつながりも強い。中世にはドイツのハンザ同盟の一翼を担い、最近でも、
2004年にはEUに加盟し、2007年にはシェンゲン協定に加盟している。また2011年からは、とうとうユーロが導入される予定である。
日本人がバルト三国をロシアとの関連で捉え、また「バルト三国」とひとくくりにしてしまうのは、ソ連時代の影響だろう。だがこれら三国の宗教と言語はロシアと全く違うし、三国それぞれの言語と宗教も全く違う。今回の旅は、あくまでもエストニアの首都、タリンの話である。
さて、エストニアは第二次世界大戦時にソ連に編入される以前、1917年のロシア革命が起きるまでも、ロシア帝国の一部だった。だが、同じロシアの支配と言っても、2つの時期に対してエストニア人が持っている感情は、異なるようである。そのことを感じさせたのが、タリン市博物館で、街の歴史を見ていたときである。ロシア帝国時代については、それ以前のドイツ人やスウェーデン人による支配の延長のような形で、ロシア帝国の下でも文化や経済が発展したことが強調され、ロシアの歴代皇帝の肖像画も飾られていた。
その後、わずかな独立期間を経て、ソ連時代のコーナーに行くと、語り部の老人が立っており、ソ連によるエストニア政府首脳の強制連行など、ソ連時代の苦難について熱く語ってくれた。展示物もソ連時代のエストニアの苦悩を強調するものになっており、最後には80年代末からの独立運動の様子が、ビデオで流されていた。また市立博物館以外にも占領博物館というのがあり、ここではソ連時代のエストニアの様子を集中的に扱っている。
旧市街の一角には、公開はされていないが、旧KGBの
建物も残っている。ソ連時代の影響は、意外なところにも残っている。タリンは海に面しているが、海岸線を歩いても漁船は見かけない。なんでもソ連時代に、軍事的な理由から一般の人々は海岸に近付くことが禁止され、漁業が衰退してしまったのだという。そのため、スーパーでも意外と新鮮な海産物が少ない。
海岸線を、街の中心部から東に歩いていくと、大きな尖塔が立っているのが見える。これは第二次世界大戦の勝利を記念して建てられたものだが、近づいてみると劣化が進んでおり、そのうち朽ち果てるものと見られる。倒すのも面倒だから、朽ちるに任せるというところだろうか。
尖塔の立っている公園を散策してみると、たくさんの十字架が並んでいるのが見えた。近くを歩いていた老人に話を聞いてみると、ここはタリン市が管理している主にドイツ人の墓地だが、第二次世界大戦時にソ連兵として戦ったロシア人の墓もあるのだという。その老人自身はロシア人で、そのうち彼はいろいろと語りはじめたが、中でも「ロシア人とエストニア人の関係は、日本人と韓国人の関係に似ている。日本人と韓国人は、顔は似ていて区別がつかないが、文化やメンタリティは全然違うだろ。ロシア人とエストニア人も似たようなものさ。私はこの国にずっと住んでいて、この国の文化を理解しているが、俺たちは絶対に一緒にならないのさ。ロシアとエストニアの間には、経済的な関係はあっても友好的な関係はないね」と言っていたのが、印象的だった。なおご存知の方も多いと思うが、エストニアが独立した際に、ロシア人住民は国籍をはく奪され、無国籍状態となったため、政治的権利が大きく制限されている。これは国際的にも注目を集めている、大きな問題である(ラトヴィアでも同様の問題が発生している)。
現在でもしばしば日本は、戦前の歴史に絡む「歴史認識」の問題をめぐって外交問題を抱えてしまうが、エストニアは独立から20年経っていないだけに、記憶もより生々しく、その分解決には時間がかかるだろう。だがこの問題を解決するのは、時間しかないのだろうか。あるいは、時間さえ経てば解決するのだろうか。日本が抱えている問題にも通じることであり、短い旅ながら、いろいろと考えさせられた。
2010年8月23日 X